20世紀を通じて、雇用と国内外市場の需要の観点から見ても、絨毯産業は断然、石油精製に次ぐ最も重要なペルシアの産業であった。19世紀、海外資本によって支配されるという大きな限界性はあったものの、第1次世界大戦後は、レザー・シャーによって制定されたイラン化政策の結果として、ペルシアのアントルプルヌール(企業家)によって徐々に継承されるようになった。絨毯市場はしかしながら依然として輸出に大きく力が注がれ、またそれ故に世界的な経済サイクルに呑み込まれていった。例えば、第1次世界大戦後、輸出は伸びたが、1929年の株式市場の暴落で極端な落ち込みを見せた。その結果、産業も技術的、組織的、商業的未熟さで大損害を受けた。紡績の低い生産力、経糸・緯糸の準備、織りや打ち込みの展開などを含む技術的問題は、時代遅れの機器の使用や生産管理の欠如のせいであった。産業は織り手が、混乱や非効率へと導くような多くの中間業者に依存するようなやり方に組織化されていた。商業的な側面においても、化学染料の使用や第2次世界大戦後のデザインにおける目新しさの欠如がペルシア絨毯に対する海外の抵抗反発を増強することになり、輸出の促進を通した強力な市場開発が必要となった。1970年代には、近代的な機器の導入と生産の再組織化により、これらの分野全体に改良が成されることとなった。
絨毯産業の発展
ソルターナーバード地区やタブリーズのように設立された絨毯産地は20世紀にもその重要性は残され、加えて19世紀に二次的な重要性を保持してきたケルマーンなど幾つかの都市において、絨毯生産と取引が顕著になってくる。パーシー・サイクス卿Sir Percy Sykesは、ケルマーンの領事として赴任しているとき、現地の生産業者にタブリーズに代わりダンダレ・アッバ―スから輸出するよう説得し、コストを50%軽減したと述べている。また彼はヨーロッパのデザインよりもむしろペルシア伝統のデザインのみを生産するよう説得し、現存する市場の大きなシェアを獲得することが可能になったばかりか、新しい市場を開くことにも繋がった。1909年、ニューヨークにそれぞれ本社を置くニオルコ・キャステッリ兄弟商会Nearco Castelli & Brothersと東方絨毯商会The Eastern Rug and Trading Companyがケルマーンの絨毯工場に投資を始めた。その十年後には、別の大きな英米の工場が設立され、その結果、1911年までにケルマーンの絨毯工場だけで約1万人の労働者が雇用されることとなった。1908年から1911年の間に、ケルマーンの工場の生産高は倍となり、1929年までに約5000台の機が稼動することとなって、その生産高の90%はアメリカ向けのものであった。その当時までには、タブリーズからの従来の受託業者は殆ど欧州企業に置き換わっていた。1929年の世界恐慌の後、欧州企業はケルマーンを去った。後に戻ってきたときは、レザー・シャーのイラン化政策のため、受託業者としてではなく、バイヤーとして訪れることとなる。その最大のものが、イラン・カーペット・カンパニーへの株式譲渡であった。それは、高品質の絨毯を生産するために、1935年に設立された。その外国企業の終焉まで、絨毯輸出の外資による独占が継続していた。
次号11/18に続く
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