絨毯生産の組織化
1階建ての建物に20台の織り機を収容し、20人から60人の織り手、そして監督者がいるという工場での製織は、ペルシアでは常にほんのわずかしかなかった。このタイプの組織化は、よりよい品質管理が可能な許容範囲のものであるが、労働法の施行をより多くの条件とするものである。然るに殆どの絨毯づくりは、下請け業者に任されており、それは家族内の労働力や他の地域の源泉によるものである。それも彼ら自身の約20-30%の織りという労働によるものである。市場の情報や接触もなく、そして独立のための資本も欠如している状態で、である。ほとんどの契約の織り手は、自分の作業場を通常自宅に持ち、中には労働場所を借りている者もいるかもしれない。また、織り機のない工房を持つ者もいる。2本の巻上げ棒で構成される織り機は、作業場の横壁に固定されており、莫大な投資を表している。1960年以前の木製織り機で300トマーン、安い鉄製の織り機がやがて導入され、1971年には100トマーンであった。
輸出市場の需要は契約作業の中に、ある標準化が求められる。例えば、アメリカのバイヤーたちは、絨毯の広い部分の背景を明るい色の無地で仕上げること望んだ。色調の統一、特に背景色は重要であった。染色の可変性からすれば、一度に大量の染色糸を購入する必要があった。織り手は通常この類いの資金は持ち合わせていない。また、絨毯づくりには約半年の労働コストが要求される。彼はこれを前金で準備することもできないし、クレジットもほとんど利かない。そこで素早い売上と支払のため、より小さな絨毯の製作が主流となる。この現象は、すでに1880年代の初め、絨毯の商業生産に現れていた問題でもある。経済的必要性は、織り手が自ら絨毯を売ることを困難にする。というのも、バイヤーが来るのを待つ間、支え続けることが極めて困難だからである。自立した織り手に開かれた一つの選択肢が、アマーナト・フォルーシー、すなわち価格の5-20%の手数料を渡して代理店を通して絨毯を販売する信託販売であった。
田舎では、織りは、すべての必要な材料を提供する中間業者(ダッラール…ブローカー、ハーメル…代理店、オスターデ・カール…親方、マハルチー…代理人)か、バーザールで材料を買い揃える所帯主か、あるいはイラン・カーペット・カンパニーかのいずれかによって組織化されることとなる。3つのタイプの中間業者は、はっきりと区別がつく。すべてが本来都市を基盤としていた。まず、絨毯のディーラーとしてのみ活動している人々。ピーラヴァルといって、田舎の人が必要とする総合的な必需品を供給する行商人。それに教師や政府の役人、そして副業に絨毯を扱う他の人々である。
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