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執筆者の写真数寄の絨毯

シリーズ解説-パフラヴィー期のペルシア絨毯[4]

イスファハーン地区では、オスターデ・カール(親方)は出機の織り手のために大量の原材料を提供する。しかし、製作される絨毯の事前の権利をもつという古いピーシュフォルーシュ(前売り)の習慣は、そこにはもう存在しない。織り手は彼に金の支払い義務があるが、望めば絨毯を売るかもしれない。それにもかかわらず織り手は非常に不利に立場で、とくに村では親方が同時に信用の主な(あるいは唯一の)源泉であり、消費財の供給者であり、そして絨毯ディーラーである。その状況はアラークなどでも幾分か同じようなもので、そこでは、マハルチー(代理人)として知られる中間業者が、仕上がった絨毯を定められた金額で購入する権利と引き換えに、織り手にすべての原材料を供給する。彼らは準備されたウールを購入するか、あるいはウールを梳き、洗い、紡ぐよう手配する。彼らはまた、6カ月に及ぶ信用を利子付きか、あるいはピーシュキャリード(事前購入)の権利付きかで供給する。織り手は、このように経済的に彼らに依存しているのである。信用や原材料、絨毯取引などの独占を通して織り工程をコントロールする中間業者は、ある種の非公式連合を構成している。

ゴムにおいては、産業は自治区によって組織化され、すべての原材料や意匠が供給されている。支払いはサイズと作業の複雑さに従って決定される。織り手の約30%が自立しており、わずかの村に集中している。彼らはどこか他の場所から付加的サーヴィスや原材料を購入し、ゴムで絨毯を販売する。1969年の概算では1,000-1,500トマーン、すなわち年間の世帯当たりの収益の20-40%が絨毯織りからもたらされている。事実、これらの収益は農作業からの収入より多くの田舎の家庭にとってはより重要なものとなっている。

1970年代のコルデスターンのように、都会の資本や組織もある役割を演じており、そこでは絨毯産業は比較的未発達であった。ウールは、サナンダジュの市場では原毛のまま売られているか、外部の商人によって村から集められるかのいずれかであった。完成した絨毯はサナンダジュかケルマーンシャーで、他の地区からきた人々によってほとんどが売られていた。25もの村で、マーケティングが深刻な問題であると言及されていた。バイヤーの欠如は織り手の事業の拡大を阻んできた。

部族民地区の絨毯づくりは、まだ比較的独立性を保っている。というのも、下請け制度がほとんど食い込んでいないためである。都市の投資家も、移動を常とし、自身が必要とする原材料を所有する部族間の資本リスクをあえてとらない。例えばバフティヤーリー族のテリトリーではピーラヴァルや他の中間業者に絨毯を売ることはあっても、オスターデ・カール(親方)はほとんど存在しない。かつてはオスターデ・カールが優位を占めていたナジャフアーバード渓谷などでも同じようなものである。

1948年以降のケルマーンの部族民地域では、委託業者の不在のせいで、(国外の輸入業者の説によれば)絨毯の質が低下したといわれた。ウールの高騰でウール組織のものが、綿の経糸に置き換わったためである。天然染料もどんどん化学染料に置き換えられた。小さな部族民絨毯はこのように国内市場のためのものとなってしまった。またアルダビール地区では正反対の現象が起こり、絨毯の質が製品の市販品化で苦しむこととなった。一部の全体的劣化はすでに19世紀に始まっていたのだが。

イラン・カーペット・カンパニーは1935年、絨毯輸出の監視と品質の標準的保証のために設立され、海外市場の低迷のせいであったが、わずか1年後には輸出の制限が解除されることとなった。それ以降、会社は絨毯生産に用いられる原材料の購入のための村の協働組織への農協銀行(バンケ・ケシャーヴァルズィー)によって広げられた信用の保証人として機能するようになった。完成した絨毯は会社によって買い上げられることとなり、それで農協銀行からの借入金を返済することとなる。イラン・カーペット・カンパニーはまた、手織り絨毯の市場が機械織り絨毯によって市場が奪われないように、著作権のために絨毯意匠の登録目録を確立している。品質管理を改良するために会社は、羊毛の洗浄と梳きのために6つの工場を、3つの染め工場を、そして1つはそれぞれ羊毛のカーディングと紡ぎのための工場を設置した。利益の80%を協同組合の設立を通して地方の多くの織り手の向上のために確保しておくと公表している。会社は、織り機や原材料、その他必需品の購入を手助けするために、またより高い報酬、児童労働力の排除、よりよい労働環境、製品の高い水準を固執するために計画わ策定してきた。これらの施策は絨毯の価格を25%上昇させることとなった。ザーボルでの経験はこれらの目標のいくつかを達成したことの証左となっている。

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