手織り絨毯の起源を探る
パズィルィク絨毯とその他の出土絨毯
ロシアの考古学者ルデンコは、1949年、南シベリアのアルタイ山中で、遊牧民スキタイ系マッサゲタイの王墓と思われるパズィルィク古墳5号を発掘。偶然にも氷に閉ざされていたため劣化を免れた約2m四方の絨毯が発見され、紀元前5~3世紀頃のものとわかった。(第5号墳は1991年のデータではB.C.390~B.C.370とされている) その絨毯の製作技術は今日のものと変わらない高度なもので、閉鎖型・左右均等結び(トルコ結び)が用いられており、織り密度は3600k/dm2(232k/in2)であった。また、ルデンコはその数年後、パズィルィク渓谷の西約180kmのバシャダール古墳で、7,000k/dm2(452k/in2)の織り密度をもつ絨毯の断片を発見。こちらは開放型・左右非均等結び(ペルシア結び)で、パズィルィクの絨毯より、さらに130~170年遡るものであった。
手織り絨毯の起源は、現存する最古の絨毯を基準に類推されるが…最古の絨毯とされるパズィルィク絨毯は、すでに技術的にも意匠的にも近年のものとそれほど変わらない、かなり進化したものであったことから、絨毯の起源はこれよりさらに遡るものとされ、今から3千年前とも5千年前とも考えられているが…
どこで、誰の手によって、パイル織りの手織り絨毯が織られはじめたのか…という疑問に関しては、諸説あるものの、確かなことはわかっていない。
ちなみに、パズィルィク絨毯のデザインは、5本のボーダーをもち、内外の細いガードにはグリフィン走獣文、中央の細いガードには花文、外の太いボーダーには28体の騎馬像と馬を引き連れた戦士像、内の太いボーダーには24頭のへら鹿(黄鹿)、センターのフィールドは、アッシリア宮殿の入口にある石彫を思わせる花文デザイン(light-symbol cross)の反復文が4×6で配されおり、赤の染料にはケルメスが使用されていたという。起源に関しては、中央アジア説、アルメニア説、東アケメネスの辺境部にあたるパズィルィク近辺説、アケメネス朝の中心地説などさまざまあり、これも確かなことはわかっていない。
その後の出土絨毯について
その後の絨毯の足跡は、イラク西南砂漠の洞窟遺跡アッタール出土断片で1~3世紀、シリアの都市遺跡ドゥラ・エウロポス出土の断片で、3世紀頃のものとされている。東トルキスタンのタリム盆地ではイギリスの考古学者オーレル・スタインが、楼蘭(ローラン)、吐魯番(トゥルファン)で、3~6世紀頃の絨毯断片を発見。また、庫車 (クチャ)で、5~6世紀頃の絨毯の断片が、ドイツの東洋学者ル・コックによって発掘されている。そして、エジプトのカイロに近いフスタートからは7~9世紀頃のものとされる絨毯断片の数かずが出土している。この中にサンフランシスコにある動物文のフスタート絨毯も含まれる。これらはいずれも乾燥地帯という特殊性の中で腐食を免れて残されたものといえる。イランでは、パルティア王国(前250-後224)とサーサーン朝(224-651)時代の遺跡シャハレ・グーミースから出土した染織品にパイル絨毯の断片が付着しており、これが最も古いペルシア絨毯の考古資料となっている。
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