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ペルシャ絨毯の通販サイト/ 数寄の絨毯 (すきのじゅうたん)
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PERSIAN CARPET
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シルクロードの民族
この中で、比較的シルクロードの歴史に関係して登場するのが、中央アジア・西アジアを拠点としたインド・ヨーロッバ語族のアーリア系、アルタイ語族のテュルク・モンゴル系、そしてイスラームの起源となったアフロ・アジア語族のアラブ系である。歴史的な流れとしては、紀元前9世紀頃から中央ユーラシアのアーリア系民族がウクライナ平原を南下してオリエントの地に向かい、6世紀にはモンゴル高原からテュルク系遊牧民の波が西へと移動してくる。7世紀にはアラブ系民族がイスラームを東方へともたらし、10世紀にはテュルク系民族がユーラシアに広がり、13世紀モンゴルの制圧を経て、民族がシャッフルされていく。その歴史的な民族について、以下に列挙しておく。
① アーリア系遊牧民
◆キンメリア人 Kimmerians
キンメリア人は、紀元前9世紀頃に南ウクライナで勢力をふるった遊牧騎馬民族で、北方の草原からからオリエントへと侵入した先駆的存在である。ギリシア語でキンメリオイと呼ばれ、その居住地(南ウクライナ)はキンメリアとされた。ホメロスの『オデッセイア』にも文献として残されている。アッシリアに侵攻しようとしたが、紀元前7世紀スキタイ人に敗退し、小アジアへ移動し、消滅した。
◆スキタイ人 Skythai/Scythians
紀元前8世紀から紀元前3世紀にかけて、アジア北西部を中心に勢力を有した遊牧騎馬民族で、遊牧国家を築いた。ヘロドトスの『歴史』にスキュティアの名で詳しく語られる。スキタイは、メディア、ペルシアとも交戦するが、サルマタイに圧迫され、紀元前2世紀に滅びる。スキタイは自らの手による文献は残していないが、多く工芸品などの考古学資料を残し、動物文様と黄金美術のスキタイ美術として知られる。
◆サカ人 Saka
サカ人(古代ペルシア語でサカー)は、紀元前6世紀頃から中央アジアに現れる騎馬遊牧民だが、ペルシアの文献(ビーソトゥーン碑文)による呼び名で、古代ギリシア語ではサカイと呼び、スキタイ人と同一とも考えられている。中国の史書(『漢書』西域伝)で塞(さい)と呼ばれる種族がサカにあたるとされる。マッサゲタイ族はサカ人の下位部族で、アム河以北の「尖帽のサカ人(サカー・ティグラハウダー)」のことであるとも考えられている。
◆サルマタイ人 Sarmatia
サルマタイ人は、紀元前4世紀から紀元後4世紀にかけて、活動していたイラン系遊牧民族。紀元前3世紀、東からスキタイを壊滅させ、南ウクライナに入った。スキタイ人は、騎馬戦闘術と重装武装の武具甲冑を持ち、ヨーロッパを脅かした。
◆アラン人 Alan
1世紀初頭、アラン人が東方から現れ、サルマタイを駆逐してウクライナ平原の覇権を握った。アランとはアーリアが転訛したものと推定されている。4世紀にはフン族の移動が始まり、西方社会を大きく揺るがし、アラン人はヨーロッパやカフカース(コーカサス)へと四散した。
◆パルティア人 Parthia/Partians
時代は遡るが、紀元前3世紀半ば頃にパルニ族(マッサゲタイ族の分派ダーハ族の出自)が、遊牧民でありながら、定住民と共生し、アケメネス朝終焉後のギリシア人のセレウコス朝に替わり500年続くアルシャク王朝を築く。パルティアとは、一時的にパルニ族が制覇したパルサワ(ギリシア語でパルティア)の地に由来する。振り向きざまの騎射、パルティアン・ショットでも知られる。
◆エフタル Ephthal
エフタルは、5~6世紀にかけて中央アジアに存在した遊牧国家。民族系統はイラン系とする説が有力である。サーサーン朝ペルシアを属国化するが、6世紀には、東からテュルク系遊牧民である突厥が勢力を伸ばし、消滅する。このエフタルが、アーリア系遊牧民活躍の終章といわれる。
② アーリア系定住民
◆メディア人 Media
古代ギリシア語でメディア人、古代ペルシア語でマーダ人と呼ばれ、紀元前9世紀頃中央アジアから、イラン高原に出現し、牧畜と農業を営んだ。アッシリア帝国に抗しイラン高原西部にメディア王国(B.C.672-B.C.653, B.C.625-B.C.550)を建国。やがてペルシア帝国に吸収されるが、その後も官吏や軍人はメディア人が多くを占めていた。
◆ペルシア人 Persians
メディア人と同じ頃イラン高原西南部に侵入したイラン系アーリア人で、ギリシア語でペルシア、古代ペルシア語でパールサ。エラム王国に包摂されていたが、二つの帝国(アケメネス/ハカーマネシュ朝B.C.550-B.C.330、サーサーン朝 226-651)を築く。
◆バクトリア人 Bactrians
第5の文明といわれるオクサス文明、すなわちバクトリア・マルギアナ複合文化BMACを構成したと思われるイラン高原北東部の人々で、アーリア系と確定されたわけではないが、ヘレニズムや仏教を受容し、紀元前6世紀から9世紀にかけてシルクロードの重要な位置を占めている。
◆ソグド人 Soghd
アム・ダリヤー河中流域とシル・ダリヤー河に挟まれたソグディアナ地方の住民で、紀元前6世紀後半より政治史に現れる。3世紀頃より商業民族として活発にシルクロード交易の中枢を担うようになる。ブハーラーを首都として、土着の貴族がサーマーン朝(875-999)を興すが、その後テュルク系民族の侵入が始まることとなる。
◆パシュトゥーン人 Pashtun
テュルク系民族が覇権を握った中央アジアで10世紀になり、アーリア系の言語を温存した遊牧民族がイラン高原東部に現れる。それがパシュトゥーン人で、その起源は紀元前2世紀に遡るともいわれ、アフガーン(Afghan)人、パターン(Pathan)人とも呼ばれている。
◆クルド人 Kurd
トルコ東部、イラク北部、イラン西部、カフカースの一部に居住する山岳民族で、その起源は古く、イラン系のメディア人と土着のグティ人の混血で、イスラーム期になってからクルドの名で呼ばれるようになった。イランではコルデスターン(Kordestan)がその居住地となっている。
◆アルメニア人 Armenian
アーリア系ではないが、絨毯とは因縁深い民族として、アルメニア人がいる。自称はハイHai、カフカースのアルメニア共和国を構成する民族だが、紀元前千年紀からの歴史をもつ。紀元前3世紀に大アルメニアを成立させ、301年にゾロアスター教からキリスト教に改宗、世界で初めてキリスト教を国教とした。5世紀には独自のアルメニア文字をもつに至る。ユダヤ人同様、商業民族として活躍、国外居住者も多い。かつてアルメニア高原から小アジアまでその版図はあり、謎の多い民族である。
③ テュルク系
◆中国史にみるテュルク系遊牧民
中国では辺境の民族は「東夷西戎南蛮北狄」などと呼ばれていたが、この「狄」がおそらくテュルク系だったといわれる。また中央ユーラシア東部に勢力をもった匈奴の北方に紀元前3世紀頃から史書に現れるバイカル湖南方の「丁零」、そして紀元後の隋唐史書に出てくる広い範囲に分布した「鉄勒」が、テュルクの漢字の音写だとされる。6世紀になるとモンゴル高原に「突厥」が現れ、突厥帝国(552-744)を打ち立てる。数々の突厥碑文(オルホン碑文など)が発見されており、これがテュルク系民族最初の自ら刻した文献とされる。突厥が滅ぶと、モンゴル高原は同じテュルク系の九姓鉄勒(トクズ・オグズ)を中心とした回鶻帝国(744-840)に引き継がれ、このウイグル(回?)の可汗国が滅びると、キルギスなどが主導するも、モンゴル帝国の成立まで諸部族が林立し、テュルク系遊牧民は、西へと移動を繰り返すこととなる。
◆ピザンツから見たテュルク系遊牧民
5世紀にビザンツ帝国の史家が黒海の東北部でテュルク系遊牧民のブルガロイ(Bulgharoi)について記している。またの名をオノグル・ブルガール(Onoghur Bulghar)といい、7世紀には遊牧帝国ブルガール王国(635-653)を築くが、ほどなくカスピ海の北から勢力を伸ばしてきたハザール(Khazar)に滅ぼされる。カスピ海のことをムスリムは「ハザールの海」(ペルシア語ではダルヤーイェ・ハザール)と表現する。このハザール人は、イスラームではなくユダヤ教を受け入れている。これらステップ地帯を西へと移動したトュルク系民族に対して、シルクロードを南下していったグループはオグズ(Oghuz/トルコ語ではオウズOguz)と呼ばれる。
◆オグズ Oghuz
オグズは、9世紀半ば頃から民族移動を開始した。オグズの名は、かつてモンゴル高原から中央アジアの北部に大移動した神話的英雄オグズ・ハンに由来する。オグズは10世紀以降になると南下してイスラーム化するとともにトゥルクマーンの名で呼ばれるようになり、その一部はカラ・ハン朝(960-1212)やセルジューク朝(1038-1194)などのイスラーム王朝を建てた。
◆その後のテュルク・モンゴル系民族
セルジューク朝の一部はアナトリアに移動しルーム・セルジューク朝(1077-1308)を打ちたて、オスマンを名乗る一派はオスマン朝(1299-1922)を築く。13世紀には、蒼き狼を父に、白き牝鹿を母にもつといわれるバタチカンの子孫とされるモンゴル族がシルクロードを西へと一気に制圧する。モンゴル族はジュンガリアにオゴタイ・ハン国(1225-1330)、中央アジアにチャガタイ・ハン国(1227-1370)、南ロシアにキプチャク・ハン国(1243-1502)、イラン北西部にイル・ハーン国(1256-1353)を建国。その後中央アジアにはチャガタイを引き継ぐティームール朝(1370-1507)が興り、インド亜大陸にティームールの血を継ぐというムガル朝(1526-39/1555-1858)が興る。これらはモンゴルの血を受け継いだ王朝でも、大半がテュルク系で占められていた。
④ アラブ系
◆アラブ Arab
旧約聖書の創世記では、ノア(ヌーフ)の子どもが、セム、ハム、ヤフェト(ヤペテ)の3人であった。セム人には、歴史的にバビロニア人、アッシリア人、カルディア人、アモル人、アラム人、フェニキア人、ヘブライ(ユダヤ)人、アラビア人、アビシニア人などがいる。アラブとはアラビア人の意味で、その民族的起源は明確ではなく、旧約聖書によれば、アブラハム(イブラーヒーム)が妻サラの女中であるエジプト人奴隷のハガルとの間に生ませた長男のイシュマエル(イスマーイール)を祖とするイシュマエル人の子孫がアラブとされている。そしてアブラハムとサラの間に生まれた次男イサク(イスハーク)の子孫がヘブライ(ユダヤ)人となった。預言者ムハンマドが622年マディーナ(メディナ)に移住して教団国家を建設。正統カリフ時代(632-661)の後、アラブ帝国といわれるウマイヤ朝(661-750)、イスラーム帝国と呼ばれるアッバース朝(750-1254)、シーア派のブワイフ朝(932-1062)などが成立。アラブの時代が訪れるが、やがてこれらの王朝はテュルクの勢力に呑み込まれることとなる。
◆ベドウィーン Bedouin
ベドウィーンとは、アラビア語のバダウィーからくる、砂漠の住人を指す一般名詞である。町に住む人々ハダリーに対し、バダウィーすなわち「バーディヤ(町ではない所)に住む人々」を指している。
Page Contents
広くユーラシア大陸を網羅したシルクロードは、数多くの民族交流の場であったと同時に、民族興亡の舞台でもあった。長い歴史の中で数々の民族がシルクロードに存在し、混交し、また吸収され、現在の分布を形成している。今日民族について語るとき、形質人類学よりも言語人類学の分類が比較的正鵠を得る場合が多いので、シルクロードに関係する語族を列記しておく。この分類は諸説あり、まだ研究の途といった部分もあるので、今後変動することもある。